S45年8月13日朝
御理解第六四節
    「此方は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受け
    て遠路のところを参って来るが、信心して徳を受けて、身
    しのぎをするようになれ。」


  教祖様の許にお参りをさしていただいて、何を皆が頂いたか。唯お蔭だけに終わったという人も数限りなくありましたでしょう。
  ここに参ったら、どうでも一つお徳を受ける話を聞いてお徳を受けてくれよと、身しのぎををするようになれといっとられます。
  「此方参ってたずねる所がなかった。」これは同じ金光さまの御信心を頂きましても,私のことを申しましても,いろいろ信心のお話を聞かせてもらっておったけれども,それが身に徳を受けていくといういただき方を教えなかった。
  せっかく遠路のところを参って来る、せっかく遠い処を参って来るのだから。せっかくならば、お徳を受けられる頂き方、それが私は大事なところだと思うのです。
  いただき違いとか、やっぱりありますけどね。そこんところは重ねてお尋ねいたしましても、もう一つ御徳のうけらる、お徳を受けられるお徳を受ける事ができるいただき方、徳を受けて身しのぎをするようになれ。
  身しのぎというのは信心を自分のものになしてしまえというわけでしょうね、自分で直接神様に頂けるような道を覚えよということだと思いますね。もう一つ,そういう工夫をさしてもらわなければいけません。
  これはお話を頂くというても百人の者が頂きましてもそれぞれの信心の程度もありましょう。理解力の程度もありましょう。、
  お徳を受けられる頂き方、お徳を受けられない頂き方をする人がやっぱりあります。
ですから、いうならば、教祖様が一生懸命実意丁寧なご信心をなされ、天地の親神様から、云うなら、直伝、こうすればお蔭を頂く、こうすればお徳が受けられるという神様からの直伝を参ってくる信者氏子にお伝えになった。
  だからそれを間違いなく、受けて行じていけば、お徳を受けられるのですけれども、それを頂き違いをする。
  これは、本当か嘘か知りませんけれども教祖の時にあったという。「あるおばあさんが参って来た。そのおばあさんに対して教祖様が「ひとのわるきはわがわるき」と仰った。ひとの悪い処が見えるのは自分の心の中に悪いものがあるからだということを仰ったんでしょう。
  ところがそのおばあさん、ひとの割り木はわが割り木いんじゃから、帰りがけに(他所の(ねぎかれん?)に積んである割り木をみんなもって帰ったという。教祖様が云うたんじゃからという訳なんです。焚き物のことをわるきといいますよね。
  頂き違いますとそういうことになってくる。わたし2,3日御理解を信者さんが書いとりますのを、書き終わりますと、一件読ましていただきます。最近上野先生が時々書いている。読ませて頂いておりましたら、「此方の行は火や水の行ではない・・・」という処がありましょう。その「火や水の行」のところを「ひ・や・み・ず」と書いてあるから「冷たい水」と書いてある、ヒヤっとする水と書いてある。ぜんぜん意味が違うでしょう。
  教祖様は、いわゆる、燃える火のこと、火の行、水の行というを言うとられる、コトバは「ひ・や・み・ず」ですからね、ですから「冷たい水」と書いてある。言うように、聞き違い頂き違いというのがあります。
  けど、根本のところは、それに対する答えが出てこない。例えばそういうふうな処を身につけていかなければいけない。
  昨日は美登里会がありましたから、私も参加させて頂いた。まあいろいろ話聞かせてもらった。とにかく教祖様は徳を受けるということを、信心に修行はつきものであるということを必ずおしゃっておられます。
  信心に修行は、それこそ、火や水の行でなくても、此方の業は家業の行とこう仰る。家業の行というのだから家で一生懸命働いておれば、それが行だと、云う様な、単なるそいういただき方をしたんでは、徳を受けるような行にはならない。
  根本的にそこん処がよく分からないと、此方の道は、金光様のご信心は楽なもんだ。いろんな行をしなくても、うちで仕事すること自体が行だからと、そういう考え方でもいいですけれども、それで徳が受けられないならね、やはり、考えてみなければならない。
  家業の行とはどういうことか、しかもね、その行には手応えのある、だから行でなければならないということがわかります。手応えのある修行をさしてもらわなければならない。
  昨日美登里会の中で、光橋先生が発表しておりますなかに、あちらでも、こちらでも、なかなか修行が強い人ですから、あちらでは尚更、修行に専念しておられる。もうあちらではあちらの学院で出される食べ物は食べずに、自分で食べ物を買うてきて煮たり、すきやきなんかして自分で食べる人があるそうな。次から次と食べ物を,お菓子等いろんな物を買うてきてゃあ、もう間食をする人がたくさんいる。殆どが教会の子弟ですから、やっぱあ、まあ裕福な教会は、小遣いをたくさん送ってもらうわけでしょう。そういう中で歳をとって修行さしてもらうのはなかなかし難い。場合によっては自分も貧乏くじをする時にゃ、一口語らにゃあならん時があるらしい。
  間食をしないと決めてあるけれども、あんまり、周囲の人が申しますから、周囲の人にコリを積ませてはならんからと、まあ 心ひとつにひっかからんなりにいただいた。
  そしたら、すぐ神様からお知らせをいただいた。カミが抜けていくところをいただいた。カミが抜けていくということは、信心の、カミは神に通じるでしょうね。
  又梯子を登っている、一番下から2、3段登って落ちる処を頂いた。
そこで光橋先生が感じている事は、私のようなささやかな修行でも神様がこのようにして受けておって下さるという事がわかったと。
 せっかく、言うなら、修行させていただきよる。それから、又、つぎは、「一つ積んでは父の為、二つ積んでは母の為 」と言うような御詠歌がありますよね。そういう場面をいただいてね。
 せっかく積んどったのを崩してしまっておる。先生は子供も何人もありすし、まだ姑、親が二人とも居られるし、里の方にはまだお母さんが居られます。
  先生のことですから、本当にこれは子供のためにという修行もしているでしょう。これはお父さんお母さんのため、姑のためを思って修行もしよることでしょう。それがね、無残に崩れてしもうた。
  たったそれだけの「間食はしませんという修行」を永らくさしていただいているんでしょうが、それをちょと、例えば、べつにひとに懲りを積ましてはならんからと思うて「摘まんで頂いた事」がそんなにも響くもんだということか。
  修行というのは、やはり、貫くものだと言うことと同時に、お互いせっかく修行さして頂くならば、ここで申します教祖さまは必ず参って来る氏子に御陰をお取次ぎくださると同時に信心をお取次ぎくださる。それを身に付けるためには修行を必ず求めておられる。
  信心に修行は付き物、その修行に御陰がつく、修行に力がつく徳がつく。それにいただく御陰が本当のおかげの受け物をいただいて、その受け物にいただく御陰だと言う風に説いておられます。
 ですから、10年信心しておる、20年信心しておると云うても、一つも手応えがない信心であり修行であり、否お陰は受けてもです、自分の修行が受け取られていないようなところを感じられる、分かるわけです実際に、手応えがある。
  それが手応えもなんもないと云うのなら、自分の修行というものを、それこそ、火や水の行といわれるのに「冷や水」の行じゃあないじゃろか、と云うことになってくる。書き間違えている、勘違いをしておる。
  昨日合楽町の中村さんが今朝方からお夢をいただきました。どういうお夢かというと「足にいっぱい蚊がとまっている。その蚊を一匹、一匹取ってから、昆虫の標本のようにしてから子供に封筒に入れてから送ってやろうとしている処」を頂いた。
  本当にもう神様が、噛んで含めるように教えてくださる、ありがたい事だなあと話たことでした。
  ここ四五日ちよっとした問題がありまして、ゆわゆる、イライラモヤモヤがあってた。せっかくこれ程しの信心修行ができておる、しかも最近では、本当に、先生腹をたてたら馬鹿らしかということがよく分かりましたという程しの信心がだんだん身についてきよる。
  それでも、腹立たんちゅう事ばっかりじゃあないけれども、せっかく信心さしていただいている者の値打ちはないとして、一生懸命修行さしていただいてるのに、ここ4、5
日イライラモヤモヤは、ちっとばっかり荷が勝ちすぎるといった感じ、中村さんにとっては。
  ところがですね神様は、教えてくださるには、足に一杯蚊がまっとる。それを一匹採っては封筒に入れよる。そしてその宛名は福岡の子供のところに出しよる。
今の光橋先生じゃあないけど、母親が、福岡に行ってる熊本に行ってる子供達のことを願い続けておられる。神様がそれを受けておって下さるということ。
  けいどもね、せっかくの、あんたが、腹を立てないという修行が、もし心が乱れたり、イライラしたりしているとすると、せっかくの修行が修行にならないぞ。
 お前だけならいいけれども、おまえが切実に願っておる子供達にまでイライラを送っているようなものぞという事。蚊がくえば、ジガジガするでしょう。それを子供に送っているようなことぞと、頂いた途端にハットするような感じ。
  私ひとり助かれば親類縁者まで助かるのに私が一人間違うと、最愛の子供の処までそれを送ってやるような結果になると気が付かれた。
  だからね、皆さん、修行とはそんなものですよ。ですからね、手ごたえのない信心修行を差して頂きよったじゃあ、一つも助からない、分からんから、何十年信心しても、なるほど、御陰は受けるでしょうけれども、ここに、身しのぎをせよと仰るようなお陰にはなってこない。
  合楽の場合、みなさんがほとんどの方が身しのぎの出来るような信心修行をなさっておられると私は思う。いうなら、手ごたえのある信心修行をなさっておられると思います。
  私ぐらいの者のささやかな信心修行でも神さまが受け取って下さると思ったら辛抱が出来ます。
  これはもう二十年も前だったでしょうか、共励会という私が先頭に立って行っておった時代です。福岡の支部ですねえ、秋永先生の処にお話に参りまして、ほとんど徹夜のようにしてお話をいたします。
  そして一番電車で帰って来るのです、明くる朝ね。まだ一番電車には、1時間か、一時間半あるから、ちよっと横になろうと云うて横になった。そしたら、電車がそばですから、電車の音がゴウーとするわけです。電車が通りよると思って起きますが、眠いもんだから又ウトウトと寝てしまう。                             そしたら三代金光様のお声で『神様が見てお出ででございます』といただいた。   あんたが昨日から一生懸命信心の話をさして頂いて、ついさっきまで夜を徹してお話をさしていただいた事は神様がよう見てござる、聞いてござる。その修行は神様よく見てござる。
  神様が見てござると思ったら途端に、眠気が覚めて飛び起きたような事がございましたがね。
  私どもは、心を込めて一生懸命に修行する。神様は必ずそれを受けてござる、見てござる、または聞いてござる。そこでですたい、そこまで分かったら、反対の事であってはならない。積んでは落とし、積んでは崩し、それは堂々巡りの信心だと云われています。
  それだけならいいですよ、堂々巡りだから。けれどもマイナスになるような信心、信心を頂いておっても、御教えをいただいておっても、ゆわゆる、マイナスになるような信心をしておるような事はいないだろうか。それであったら、いかに信心しておっても、修行しておってもだめだ。  
  遠路の処をせっかく参ってくるのであるから、信心して徳を受けさしていただく事の楽しみ、それがお参りになってくるお陰にならにゃあね、勿体ない、馬鹿らしい。なかなかねえー、わからん。
  昨日もある方のお話の中に、合楽に参られる程しの方だから、まあー信心の稽古を一生懸命していると思うておったところが、とんでもない、ああいう事では、お蔭は受けられまいと云ったような事を、平気で教会で云うたり、いしたりしている人がある、惜しいことだということです。
  折角、あれだけ日々親先生の話を頂きながら、それと反対の事をしておる。だから、それは云うてあげたがようなかではないかという話が出ました。けども、そういう人には云うも分からないかもしれないからね。祈る他ないだろう という事でしたけれども。
  お互いほんとに心しないとですね、いわゆる積んだものを、元の木阿弥になるだけなら良いけれども、かえってマイナスになるようなこといでは折角、お参りをしてきた値打ちはないでしょう。

  私今朝方、お夢をいただきました。
これは兎に角、道に饅頭屋さんが、ずーとあるとです。それが外の戸板に一杯饅頭を積み上げてある。甘いものが好きな人が見たら跳びつきそうな饅頭が一杯積んである。
あげん饅頭積んだの見たことない。トラックを持って来て饅頭を積んでいくという人がある。場所を曳いては饅頭を持って行くひともある,そういうようなお夢。それがですね,誰でも、勝手次第に持っていってもいいという饅頭らしい。ですから、その人たちが、ちいーと気が差すのか、それを一掴みこーう取ってから、車の中に入れてから、懐の中に入れたり、ポッケットに入れたりしている。
  タダでよかいっているんだから、もっと堂々と、いただけばいいとですけどね、それをガバッと一掴み取ってから、こそっと取って、取らんごつ風をしてから、また取っていきよる。というようなお夢でした。
  これはどういうことだろうかと私思わしてもらいましたが、饅頭というのは文字ではかけますからねえ。結局おかげの事だろうと、「昔からおかげ泥棒というのがある。」と昔の先生方はそういう言葉で云うておられますねえ。
  それは持っていってよかごとになっとる、けれどもね、それを、堂々というか、「ありがたくいただいてまいります、いただいてまいります」といけばそれでいいんだけれども、もう、金か何か取らればす、ガバッと取っては、盗って行くといったような人が、いくらもあるというようなお知らせの中から、ゆわゆる、おかげ泥棒では、いつまでたっても、おかげは受けられても徳は受けられない。
  それだけではない、どんなにおかげを受け貯めましても、心はいつも咎めておる、盗ってきてるんだという。いうならば、信心も出来ずにおかげを受けておるというですから、いつも心の中では「信心も出来んのにおかげをうけておる、信心も出来んのにおかげをうけておる」という気持ですから、元の木阿弥といったような結果になりましょう。
  自分の信心を追求して、至らない信心と分かる意味ではなくて、人は毎日々々お参りしよるとに、自分はお参りもせずに、月に何べんかお参りする位でおかげを受けておる、いうならば、不信心の者のこと。それで自分では「信心も出来んのにおかげだけは頂いて」と云うのは、心がいつも咎めておる。
  由それを頂きましても、それこそ桂先生に神様云うておられる「桂松平、汝が徳を受けて参ってくる信者氏子にさっさっとお蔭の貸し付けをしておけ」という風に云うておられる。「この世で氏子がお返しが出来ないときは、あの世までも神が集金に行ってやる」と
仰った。
  だからあの世までも集金に来られたんでは、かなわん。ですからね、私共はいうならば、現金買いといったような信心をさして頂きたい。というのは私共、自分にそれだけの力を頂いて、信心に修行は付き物、それで修行には必ず徳がつく力がつく、その徳、力を自分の身に感ぜられるような信心、手応えのある信心をさせて頂くということをここで教えておられると思う。   
  徳を受けて身しのぎをするようになれと。身しのぎが出来るような信心を頂きたい。
いただき違いをしてはならない。
  そこで私が思うんですけれども、私が受けている体験と神様から頂くお知らせと、それを皆さんにお話を聞いてもらっているから、もう、私がお話している事が一番間違いがないということである、ここでは。
  ここで私がおかげを受けたことを皆さんに聞いてもらっておるわけです。それを素直に間違いなく、頂くことさえ出来たら、それを間違いなく行じさえ出来たら、必ず手応えがあるはずなんだけれども、自分流に我流にそれを曲げて受けて取ったり、先生はああ云われるけれどもと、『けれども』を付けたりしたんでは、折角の、いわゆる遠路のところを参ってきても、それは得にならないということになります。。
  本当にですね、ですから教えを頂いたら自分でよくよく復習してみるとか、、自分で
頂きなおしてみると言うような生き方、分からんかったら、またお尋ねしてみる生き方を身に付けていかなければならない。早い者勝ちでそういう意味で非常に「頂き巧者」になっておられる。
  お話を頂くことはよう分からん。ただそれを行に現わすことがチイッと散漫な感じがいたします。
  ですから一つ自分の云うたりしたりしている事を本当に、教えに基ずいているかどうか、いつも確かめてみておかげを頂いて参りますなら、必ず手応えがある。これは手応えということは、もう本当に手応えがあるんですよ。本気で今日の御教えを本気で行じようという気持になったら必ず手応えがあるんですよ。
  例えば矢や鉄砲やでもそうなんです。一つの的に当たったら実際は手応えなどあろうはずがないのに、空間があるから、けれども空間をつうじて、ここに響いてくる、手応えがある。獅子うちかうときもサダクロウ?を撃つときも申しましょうが、確かに手応えがあった。確かにあった。獅子を撃ったと思った、ところが、人間を撃っとった、だから手応えがあった。手応えがあったから寄って見ると、そこに倒れているのは獅子ではなくて、人間であったという訳なんです。
  だから信心をさしていただいて信心の手応えなしに信心している人なんか私は本当に分からない気がする。唯おかげを頂くから、おかげが手応えと思ったら、おかげは絶対手応えの替わりにはならん。おかげは信心が出来んでも、 いうならば私がお夢の中に頂いているように、おかげは、丁度おかげはいりませんから、持って行って下さいといったように、おかげと言うものはあるもんで、そういうおかげではなしに、手応えのある信心、修行そしておかげというものでなければいけん。
  「この方は参って尋ねるところがなかった。氏子はおかげを受けて遠路のところを参ってくる。」せっかく遠路のところを参ってくるだけのおかげを受けているのであるからそれが信心してという事にならなければ、徳を受けることになってこなければならない。そこに「身しのぎ」という手応えとなって現れてくるような信心、そういうおかげをいただきたい。  どうぞ